「立つ」とは、止まることではない - 人は「揺らぎ」ながら立っている

query_builder 2026/08/26
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「正しく立ってください」

そう言われたら、あなたはどんな姿勢をとるでしょうか。


背筋を伸ばす。
胸を張る。
お腹に力を入れる。
脚に力を入れる。
できるだけ身体を動かさない。


多くの人が、無意識にそんな身体をつくると思います。

なぜなら私たちは、「安定して立つ=動かないこと」だと思っているからです。


しかし、本当にそうでしょうか。

実際の人間の身体は、立っている間も完全に静止しているわけではありません。

前後左右へ、ごくわずかに揺れ続けています。

これは姿勢が悪いからでも、筋力が弱いからでもありません。

むしろ、この小さな「揺らぎ」があるからこそ、人間は立ち続けることができます。


今回は、私たちが当たり前すぎて考えることすらない、

「立つとは何か?」

というところから、身体について考えてみたいと思います。


そして、この「揺らぎ」という視点から身体を見ると、

筋肉を鍛えるだけでは見えてこなかった、身体の面白い世界が見えてきます。



「立っている人」は、本当に止まっているのか?

駅のホームで電車を待っている人を見てみましょう。

遠くから見れば、その人は止まっています。

ところが身体の動きを細かく測定すると、

重心や足圧の位置は完全に一点で止まっているわけではありません。

小さく前へ行き、戻る。

左右へ動き、戻る。

また前後へ動く。


こうした身体の微細な動きは、姿勢制御の研究では

postural sway(姿勢動揺)などと呼ばれています。


つまり、人間の立位姿勢は「完全な静止状態」ではありません。

動き続けながら、倒れない範囲に身体を保っている状態なのです。


ここは、とても大事な体の仕組みです。

「安定」という言葉を、

動かないこと

だと考えるのか、

それとも、

動いても戻ってこられること

だと考えるのか。


この二つでは、身体に対する考え方が大きく変わります。

私は後者をとても重要だと考えています。



箒を手のひらに立ててみる

このことを理解するために、分かりやすい例があります。

箒(ほうき)です。


長い箒を一本用意して、柄の先端を手のひらに乗せ、縦に立ててみてください。

箒をピタッと完全に静止させようとしても、まず立ちません。


右へ倒れそうになる。

そこで手を右へ動かす。

今度は左へ傾く。

それを感じて左へ動かす。

前へ傾けば前へ。

後ろへ傾けば後ろへ。

手は絶えず細かく動き続けます。


しかし、私たちはそのたびに、

「右へ2センチ動かそう」

「次は左へ1.5センチ」

などと頭で計算しているわけではありません。

箒の傾きを感じ、それに応じて手が動きます。


つまり箒は、

揺れないから立っているのではありません。

ほうきの揺れに、体(手)が対応し続けているから立っている。


ここに「立つ」という現象を考える大きなヒントがあります。

人間も同じです。


もちろん人体は箒ほど単純ではありません。

足関節、膝関節、股関節、体幹、感覚系、神経系などが複雑に関係しています。

ですから「人間は箒とまったく同じ仕組みで立っている」

という話ではありませんが、

箒はあくまで、動的な安定を理解するための比喩としてわかりやすい例です。


静止しているように見えるものが、実は微細に動き続けることで安定している

という点では、とても分かりやすい。

これが今回伝えたい「揺らぎ」です。



なぜ私たちは身体を固めてしまうのか

ところが大人になると、この揺らぎを嫌うようになります。

グラッとすると怖い。

身体が動くと不安になる。

そこで身体を固めます。

脚に力を入れる。

腹部を固める。

肩を緊張させる。

足の指で床をつかむ。

いわば、

筋力を使って「動かない身体」をつくろうとする。


もちろん筋力そのものが悪いわけではありません。

人間が立つにも、歩くにも、スポーツをするにも筋肉の働きは必要です。

ここを「筋肉を使わない方が自然だ」と極端にしてしまうと、話がおかしくなります。

人体はそんな仙人仕様にはできていません。


問題は、

必要以上に筋力を優位に使い、

身体を固定することを「安定」だと思ってしまうこと

です。


固めれば、一時的には安心できます。

しかし、外から力が加わったらどうでしょう。


電車が急に揺れた。

誰かとぶつかった。

段差を踏み外した。

スポーツで相手から力を受けた。

予想していなかった方向へ身体が動いた。


身体を強く固定していると、その固定された範囲では強くても、

その範囲を超えた瞬間に対応しにくくなります。


一方で、身体に適度な自由度があり、変化を感じながら調整できれば、

崩れながら戻る

ということができます。


私はここに、本当の意味での身体の強さの一つがあると考えています。



「崩れない身体」ではなく「戻れる身体」

武術でもスポーツでも、

「絶対に崩れない」

という状態を理想にしたくなります。


しかし、人間は生き物です。

外から力が加われば動きます。

地面も完全に平らとは限りません。

相手も動きます。

環境も変化します。

それなのに身体だけを完全固定しようとする。

考えてみれば、少し妙な話です。


大切なのは、

一切崩れないことではなく、崩れても対応できること。

もっと言えば、

変化できるから、安定できる。

この発想です。

木を想像すると分かりやすいでしょう。

強風の中で枝がまったく動かなければ、一定以上の力で折れてしまいます。

しなり、揺れ、力を逃がし、また戻る。


もちろん人体と樹木の力学をそのまま同一視することはできませんが、

「柔軟に変化することで全体を保つ」という見方には共通するものがあります。


身体も、

硬い=強い

とは限りません。

ときには、

変われることが強さになる。

この視点は、身体を考えるうえで非常に重要です。




立ち始めたばかりの赤ちゃんを見てみる

そして「立つ」を考えるとき、

私が非常に興味深いと思うのが赤ちゃんです。

つかまり立ちから、少しずつ自分で立てるようになった頃。

赤ちゃんはどう立っているでしょう。


大人のように、

「腹圧を高めよう」

「体幹を固定しよう」

「お尻を締めよう」

「膝を伸ばそう」

などとは考えていません。

当然です。


それどころか、立ち始めたばかりの赤ちゃんは、

かなり揺れています。

前へ。

後ろへ。

左右へ。

グラグラする。

そして、ときには尻もちをつく。

それでも、また立つ。


ここで興味深いのは、赤ちゃんは単に「筋力がないから揺れている」

と片付けられる存在ではないということです。

発達初期の立位では姿勢制御そのものがまだ成熟途中ですから、

大人より姿勢動揺が大きいのは当然です。


ですから、

「赤ちゃんの立ち方こそ完成された理想の立位だ」

と言ってしまうのも違います。

そこは身体を扱う人のロマンを盛りすぎています(笑)。


しかし、赤ちゃんの立ち方から学べることがあります。

それは、

立つことを「身体を固めること」として覚えていくわけではない

ということです。

揺れる。

感じる。

調整する。

失敗する。

また調整する。

この繰り返しの中で、立つという運動を学習していきます。



赤ちゃんは「筋力で立っていない」のか?

ここは誤解されやすいので、少し丁寧に書いておきます。

赤ちゃんも当然、筋肉を使っています。

筋肉を使わずに立つことはできません。

ですから、

「赤ちゃんは筋力を使わずに立っている」

という表現は正確ではありません。


私が注目したいのは、

大人のように意識的・過剰に筋肉を固めることを

優先して立っているわけではない

という点です。


身体から入ってくる感覚情報を使いながら、姿勢を絶えず調整している。

視覚。

足裏などから入る体性感覚。

頭の動きや重力方向を捉える前庭感覚。

こうしたさまざまな情報を脳・神経系が統合しながら、人間の姿勢制御は発達していきます。


つまり「立つ」は、単純な筋力勝負ではありません。

筋肉・骨格・感覚・神経系が協調して成立する運動です。


だから私は、「脚の筋肉が強ければ上手に立てる」という見方だけでは、

身体の一部しか捉えられていないと考えています。



大人になるほど「立つ」が下手になることもある

赤ちゃんは成長し、歩き、走れるようになります。

当然、身体能力そのものは大きく発達します。

ところが大人になる過程で、別の問題も生まれます。


長時間のデスクワーク。

同じ姿勢。

運動不足。

反対に、特定の筋肉ばかりを強く使う運動。

「良い姿勢を維持しなければ」という意識。

身体の痛みや過去のケガへの恐怖。

こうしたさまざまな経験によって、私たちは身体を固める癖を身につけることがあります。


そして、

力を入れている方が安定している

と感じるようになる。

これは少し面白い現象です。


本当は身体を守るために身につけた緊張が、

いつの間にか「普通の身体」になっている。

すると力を抜いたとき、逆に不安になります。


だからまた固める。

固めるから感覚が分かりにくくなる。

分からないから、さらに固める。

なかなか厄介な循環です。



揺らぎは「不安定」ではない

ここで言葉を整理しておきましょう。

揺らぐこと=不安定

ではありません。

もちろん揺れが大きすぎて制御できなければ、

それは転倒につながります。


しかし、小さな姿勢動揺そのものは

立位姿勢に普通に存在します。

重要なのは、

揺れているか、揺れていないか

という二択ではありません。


その揺らぎを身体がどう扱っているかです。

感じられるのか。

対応できるのか。

必要な方向へ身体を動かせるのか。

そして戻れるのか。


箒の例に戻れば分かります。

箒が右へ傾くこと自体が失敗なのではありません。

右へ傾いていることを捉え、それに合わせて手を動かせる。

だから立ち続けられます。


人間の身体も、完全な静止を目指すより、

変化を感じて、それに応じられる身体

という視点を持った方が、「立つ」の本質を理解しやすくなります。



「正しい姿勢」という一点を探しすぎていないか

私たちは姿勢について、

「この角度が正しい」

「ここに骨盤を置く」

「胸をこの位置にする」

といった、静止画としての正解を求めがちです。


もちろん身体を評価するうえで、

関節位置やアライメントを見ることには意味があります。

ただし、人間は写真ではありません。


呼吸をし、心臓が生命を与え、

視線を変え、地面から力を受け、腕を動かす。

そして、環境に反応し、対応する。


つまり姿勢とは、本来、

固定された形ではなく、刻々と変化する状態

です。


そう考えると、

「正しい姿勢を維持する」

という発想だけでは少し足りません。


必要なのは、

状況に合わせて姿勢を変え続けられる能力

ではないでしょうか。

これは日常生活でも、スポーツでも同じです。




では、自分の「揺らぎ」を感じられるか?

ここからが重要です。

人間は揺らぎながら立っています。

これは知識として知るだけなら簡単です。


でも、

あなたは、その揺らぎを自分の身体で感じられるでしょうか?


ここが面白いところです。

目を閉じて立ってみる。

身体が前後左右へどう動いているか感じてみる。

足裏の圧がどこへ移動しているのか。

どこかを必要以上に固めていないか。


ただし、ここで無理に揺れを大きくする必要はありません。

「揺らぎを感じなければ」と身体をわざとグラグラさせたら、本末転倒です。


揺らぎはパフォーマンスではありません。

すでに身体の中で起きている微細な変化に気づくこと。

まずはそこからです。





「立つ」を変えると、動きも変わる


なぜ私はこれほど「立つ」を大切にしているのか。

理由は単純です。

立つことは、多くの動作の出発点だからです。


私たちは立った状態から歩き、しゃがみ、立ち上がります。物を持ったり、

押したり、引いたりするときにも、足元で身体を支えながら動いています。

さらに走る、跳ぶといったスポーツ動作や、武術で相手と接触するときも同じです。

動き方はそれぞれ違っていても、その根底にあるのは、

重力のある環境の中で自分の身体をどう支え、どう動かすかという身体のコントロールです。


だからこそ、その土台となる「立つ」で必要以上に身体を固めていると、

その緊張を持ったまま次の動作へ移ることになります。


歩こうとした瞬間に脚へ力を入れる。しゃがむときに身体を固める。

何かを押そうとした瞬間に肩や腕に力が入る。

こうした動きだけを直そうとしても、その前にある「立つ」が変わっていなければ、

同じ身体の使い方が繰り返されやすくなります。


反対に、立っている状態ですでに自分の身体の揺らぎや変化を感じ、

それに応じて身体を調整できていれば、その能力は歩く、しゃがむ、走る

といった次の動作にもつながっていきます。


つまり、「ただ立っているだけ」ではないのです。

立つという一見単純な動作の中には、どこに力を入れているのか、

どこで身体を支えているのか、変化に対してどう反応しているのかなど、

その人の身体の使い方が驚くほど表れています。


だから私は、動きを変えたいときほど、まず「どう動くか」ではなく、

「どう立っているか」から身体を見直すことが大切だと考えています。



筋力を否定するのではなく、筋力だけにしない

ここは私が特に伝えておきたいところです。

「身体を固めない」

「揺らぎを大切にする」

という話をすると、

「では筋トレは必要ないのか?」

という方向へ行きがちです。


違います。

筋力は必要です。


加齢に伴う筋力低下を防ぐことも重要ですし、

スポーツパフォーマンスにも筋力は大きく関係します。


問題は、

身体の能力を筋力だけで説明しようとすること。

強い筋肉を持っていることと、

その力を状況に応じて上手に使えることは同じではありません。


エンジンが大きければ、車を上手に運転できるわけではない。

少し乱暴なたとえですが、そんな感じです。


必要なのは、

力を出す能力と、身体を感じてコントロールする能力の両方。

私はその後者をもっと見直す必要があると思っています。



日本人は昔から「立つ」をどう考えてきたのか

日本の身体文化を見ていくと、「身体をどう立てるか」という問題は非常に面白いテーマです。

武術、芸能、礼法、生活動作。

時代や流派によって考え方は異なりますから、

「昔の日本人は全員こう立っていた」と一括りにはできません。

そんな便利な古代日本人はいません。


ただ、現代のトレーニングでよく見られる、

「特定の筋肉を収縮させて身体を固定する」

という説明だけでは捉えきれない身体観が、

日本の伝統的な身体文化の中に数多く存在してきたことは確かです。


肚。

丹田。

足の置き方。

重心。

力を抜くこと。

全身を一つとして扱うこと。


これらを現代科学の知識と照らし合わせながら検討していくと、

とても興味深いものがあります。


ただし、古いから正しいわけではありません。

現代科学だからすべて説明できるわけでもありません。


伝統を神秘化せず、科学を万能化もしない。

実際に身体で確かめ、研究で分かっていることと、

まだ分かっていないことを分ける。


その姿勢が必要だと私は考えています。



「立つ」をもう一度、自分の身体から考える

私たちは毎日立っています。

あまりにも当たり前なので、「立つ」という行為そのものについて

考えることはほとんどありません。


しかし、その当たり前の中に、身体の本質があります。

人は完全に止まって立っているわけではない。


わずかに揺れている。

その変化を感覚系が捉え、神経系と筋骨格系が協調しながら、

姿勢を調整し続けている。


つまり、

「立つ」は静止ではなく、絶え間ないコントロールです。

だから、揺らぎを悪者にする必要はありません。

揺らがない身体を目指すのではなく、

揺らぎを感じられる身体。

変化に対応できる身体。

崩れても戻れる身体。

そして、必要以上の力に頼らず立てる身体。

そこから「立つ」を考え直してみる。


手のひらで揺れる一本の箒を見ていると、

私たちが当たり前だと思っていた「安定」という言葉が、

少し違って見えてきます。


止まっているから、安定しているのではない。

動き続けられるから、安定できる。


「立つ」という何でもない行為の中には、

実はこれほど奥深い身体の仕組みが隠れています。

身体は、石像ではありません。

生きています。

だからこそ、揺らぐ。


そして私は、その「揺らぎを感じられること」こそが、

身体を上手に使うための入口の一つだと考えています。



目黒・不動前のパーソナルトレーニング、ADP PERSONAL STUDIOでは、

日本古来の身体操作や武術の考え方と、現代の身体科学の視点をもとに、

必要以上に筋力で身体を固めず、楽に立ち、効率よく動くための身体の使い方をお伝えしています。


立っているだけなのに脚や腰が疲れる方、姿勢を良くしようとすると身体に力が入ってしまう方、

バランスを崩したときに身体を固めてしまう方。


そして、筋力をつけるだけではなく、

自分の身体を感じ、コントロールできる身体を身につけたい方は、一度ご相談ください。


「安定する」とは、身体を固めて動かなくすることではありません。

揺らぎを感じながら、必要なところへ身体を戻せること。


いつも何気なく行っている「立つ」を変えるだけでも、

身体の使い方は変わっていきます。


まずは、自分が普段どう立っているのか。

その違いを、自分の身体で確かめてみましょう。


▶︎ パーソナルトレーニングの詳細・ご予約はこちら




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